日日是好日

やっぱり、Facebookは、似つかわしくない。ツイッターは、広すぎるんだよね。掴みどころなくて、そのくせオープンで、まだなんか怖い。ブログって、箱庭が自分にはちょうどいいんじゃない?そんな気がして、戻ってきましたよ! 過去は、振り返らない! 毎日を毎日、毎日、大切に生きていきたいと思います。

理解されること

社会生活を円滑にするために必要なスキルは、理解されること。

理解することでもいいんだけど、そうすると、受け身になり過ぎる。

自分を分裂させないためにも、やっぱり、自己開示して、理解されることが大事。

理解されたくない人もいる。

自分自身も経験がある。

だれにも捕まえられないように、するっと逃げる。

するっするっと逃げる。

追いかけられているうちは、それでもいい。

でも、不意に、追いかけっこが終わって、自分が興味の対象ではなくなった時

ふっと淋しくなる。

あーー、わたしは、誰にも理解されたくなかったんだ。

と、若気の至りがもたらした孤独をこっそり噛み締めて寝る。

ねえ、どうなの?どうなのよ!

理解されたいの?されたくないの?

やっぱり、平凡だと、ガッカリされても、

大したことないなって馬脚を現すことになっても

やっぱり、人は人と繋がりたいのではないだろうか?

そうであってほしいなって思う。
そうじゃなくちゃ、淋しいなって思う。

まあ、誰に理解されたくて、誰に理解されたくないかを

選ぶのは自由なんだけどね

 

ふつうは、もっともやもやっと繋がっていたいだけなのかな?

わたしが直球ストレートすぎるのかしら?


だけども、組織であったり、社会であったり、
阿吽の呼吸ばかりを頼りに出来ない場所で過ごすには、

ちゃんと理解されてた方がいい

いや、理解されているのは、かりそめの自分でもいい

仕事キャラの自分でもいい

だけど、なにか、誰かにちゃんと把握したぞ、掴んだぞって

実感を持たせてあげた方が、お互い、楽に暮らせるコツなんじゃないだろうか?

 

人は多面体だからね。全部を理解なんて無理に決まってる。

だから、一部分だけでも、ちゃんと説明して、相手の手の中に残してあげること

それって、思い遣りじゃないの?って思う。


でも、それが行き過ぎると、今度は頑になっちゃうんだよな。

筋を通すために、あるキャラクター以外の自分は受け容れられなくなる

それも、硬直的で苦しい。

自分で自分にレッテルを貼ってるみたい。

 

あーー、どうしたらいいんでしょうね。

それも、多様性だから。いろんな表出の仕方をする人がいて

それぞれが、それぞれの得意な場面で出て来て活躍する

それでいいんじゃないんですか?

って、神様の視点で、もう1人の自分が言う。

 

でも、私は今、まさに、蜘蛛の糸を上っているんだから、

上ってしまって上から見下ろしている視点なんて

なんの励みにもならないんだよ!って悪態をつきたくなる。

神ってなによ!そんな肉体から乖離している思想、

なんの腹の足しにもならないのよ!なんて、リアリストみたいな暴言がはきたくなる。