下駄を履かせる
最近のさ、男女平等の話に絡んで、下駄を履かせるってことばを目にする。
男は、長いこと下駄を履かせてもらって、会社も学校も入れてもらってきた。本当は、試験だけなら女のが優秀なのに。
とか
女は、女として、いろいろ免除されたり、優しくされたり、甘やかされ、下駄を履かされてきた。
とか。
別にさ、誰かが好意で履かせてくれた、もしくは、頼んでもいないのに履かされた下駄のこと、そんなに気にしなくていいんじゃない?
日本文化なんて、そんなもんだよ。
大事なのは、今のが実力じゃなくて、立派な下駄とか、恵まれた環境のお陰でちょっと良く見えてるかもしれないと、わかっていること。
だから、自然に謙遜も出てくるし、人に道を譲ったり、下駄を履かせる余裕も出てくる。
ちょっと、弱さを持つってことは、大事なことなんだ。
何でもかんでも剥ぎ取って、さあ、真っ裸で勝負しましょう!って、何を目指してるの?
別に、ナショナリストじゃないけどさ、日本の中で潰し合いしても、全然世界に貢献しないわけ!
七五三でも、卒園式でも、なんでもいい。みんな、きれいな服を着せてもらったでしょう?頑張るときは、下駄を履くのがエチケットってもんさ。
そうやって、ちょっと背伸びする。それが、成長でしょう?
履かせるほうだって、相手を選ぶ。誰にでも、下駄を履かせるわけじゃない。下駄をもってこい!っていばったら、パワハラかも知れないけど、ドキドキしながら、受け取った下駄を履くことに引け目を感じないでほしい。
そして、誰かの成長の節目には、惜しみなく下駄を履かせて上げてほしい。
下駄を履かせてもらったら、ちゃんとそのように振る舞ってほしい。
そんなことを思った。