善意は理解されにくい
真夜中のパン屋さんの続きです。
しかし、これが彼の真意だったら、さぞ生きづらいことだろうね。善意なんてものは、実は悪意よりも理解されがたいし、煙たがられることも多いからね。
まさに!本当にそうだと思う。
ポジティブもそうだ。
結局人は痛めつけられるような、手厳しい解釈や痛い経験を語るのが賢いと思っていて、特にそれが人のことだと、賢し気に、批判してみせるのだ。
あーーー、あるある。
こんなことを書いてるポコちゃんも、そういう人の悪口を言っていて、とても善意からくる考察ではない。
それでもね、こころの芯に善意があるのと、そうでないとでは、ストーリーが違ってくるんだよね。
他人の評価ばかり気にして不幸になっているくらいなら、横暴なくらい自分の善意に正直に歩いてみてもいいのかも知れない。
善意の暴君!
悪気はなかったんだ。ということを許せるかどうか。そこに善意を信じられるかどうかの境界線がある気がする。
本当のことを知るために、言い訳だらけの話を根気よく聞くことも必要なんだろうなあ。
え?そうなの。今年は研修、アサーティブではなくて、クレーム対応にしろと部長に言われているんですよ。
ポコちゃんのストーリーでは、年に数回あるかないかの特殊クレームではなく、ちいさな行き違いによるクレーム対応に持っていきたい。
そこの整理をしなくっちゃねえ。。なんて、本を読んで現実逃避しているようで、平行して心の底の方で、ずっと考えている。
善意を支えるのは仲間だよなあ。だって、善意は理解されにくいんだから。
理解と共感がなければ、孤独の中で善意を遂行する人は結果を出すまで、誤解を受けやすい。
安心して善意モードでいられる関係。それを環境と言うのかもしれないけれども、
やっぱり、人なんだよなあ。結局。